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【本】紙の本はバルスされる運命なのか?iPad発売に先立ち。

 いよいよ28日、softbankからiPadが発売されるということで、早く読まないと・・・と思って手にした(@図書館)のが本書『紙の本が亡びるとき?』であった。

紙の本が亡びるとき?

紙の本が亡びるとき?

 

  が、先にいっておくと、本書のテーマは、

『紙の本が亡びるとき?』 P.11
 「紙の書籍」は人々の日常から離れてゆくだろう。そのとき、長らく「本」を媒介としてきた「文学」は、どう変わってゆくのだろうか。
ということで、googleライブラリ・プロジェクトといったサービスや、KindleやiPadなどの電子書籍端末による、「本の未来図」ではない。そもそもが社会論でも技術論でもなく、文芸論なのである。
 これまで「線形的」(著者の愛用する単語)であった本が、おおよそフラットな情報の切れっ端としてネット上に漂うようになった時、知や文学はどのようなあり方で存在するのか。本書は色々な角度から、それを探る。
『紙の本が亡びるとき?』 P.275
 紙の本が遠くない未来に失われる、その前提から始めた本書は結局、なお信じるべき文学の可能性についてや、それを具現化する何人かの書き手について語り、あるいはその名や書名のみを挙げてきたわけだが、「電子化された未来で文学(または世界)がどうなるのか」にはさして触れずにこの終章に至っている。
 なので、技術的または商業的な未来予測に期待している方には向かないが、たまには硬派な文芸批評も、という余裕のある人には面白い本。
 ちなみにわたしは、リアル本フェチなので、紙端末を手放せないと思います。少なくとも10年は。
 さて・・・、
 ここからは、ネガティブ批評だぜ!
 内容はともかく、文章のスタイルが好きになれない・・・。
 (1)途切れのない文、段落のない文章
 (2)異常な数のカッコ書き
 (3)衒学的な表現、不必要な漢語、しっくりこないアナロジー
 
 (2)の例。
『紙の本が亡びるとき?』 P.91
 いささか肩に力の入った若書きで、十年近くたって読むとどうにも面はゆいけれど、言っていることの基本はいまと同じ(たぶんこの先も、ぼくはそこに拘り続けるのだろうが)、「文学」や「美」つまりは「芸術」の定義がさだかならぬままそれを信じる(正確には、信じることで自分たちを肯定しようとする)ことに、それらへの根本的な畏敬は認めかつ共有しながらも、定義を(どこまでも虚しい試みと自覚しながら──なぜならほんとうにすぐれた作品は、つねにそうした「定義」など軽々と超えてゆくのだから)試みることが、絵画等と違って大量複製技術を前提としたマス・ジャンルであることを宿命づけられた「(近代)文学」には必須なのだということで(それを欠くと、あの、バブル期からいまも街中でキャッチセールス紛いの商法がまかり通っている安手のリトグラフやポスターと、同じことになりかねない。あれだって描いている本人は、あるいは末端で売っているひとたちや、騙されて買ったひとたちは、「美」だと信じているかもしれぬのだ)、たとえば2009年の熊野大学で東浩紀と中上紀や中村文則といったぼくとおおよそ同世代の批評家・作家のあいだで交わされた、「小説の価値は「(一定上の数に)読まれる」ことになるのか、芸術的なそれとして作品に内在するのか」という(と「小説トリッパー」2009年秋号掲載のルポでとりあえずぼくが要約した)それぞれに理はあるけれどどうにもすれ違わずにいなかった議論にしても、結局は、小説の価値基準の議論と明証が(重ねて言うが、個別の確信だけでは構造的に支えられないマス・ジャンルであるがゆえに)いまなお困難であることに起因する。
 
 (3)の例。
『紙の本が亡びるとき?』 P.47
 他方、Encyclopediaの項目にWikipediaのそれを書き写すことは、前者に校閲者という見張り番がいるという以外の理由で困難である。なぜなら後者は多様性と多角性、全体と部分の相互包含関係(=Wikipediaを記述する言葉の定義自体が、Wikipedia内で反復的に記述/書き換えられていること)を持ち、ある一定のカタチに「抜き出す」ことが叶わないからであり、辞書が潜在的に持つ無限にトートロジカルな性質が、そこではより遠泳的に現れるのだ。
 比喩での説明が多いのだが、「量子」(P.63)やら「クオーク」(P.65)やら「レトロウィルス」(P.79)やら、理解を促すことが目的のアナロジーが余計に理解を妨げているケースも多い。
 「易しいことを難しく説明する」という例と言わざるを得ない。のが欠点だなあ。中身は知的な興奮に満ちているのですが。