フィクションにおける「天才」の濫用は、物語を堕落させる最大のファクター。たとえば『るろうに剣心』の比古清十郎。こんな最強キャラは、出してはいけないのです。
天才キャラは、その天才性をアピールしつつ、努力キャラの引き立て役としていかに配置すべきかに配慮すべき。だからこそ、ポップは輝くのです。ましてや、闇に降り立った天才を主人公にして「ざわ・・・ざわ・・・」とかいつまでもやってるべきじゃない。
天才キャラは、その天才性をアピールしつつ、努力キャラの引き立て役としていかに配置すべきかに配慮すべき。だからこそ、ポップは輝くのです。ましてや、闇に降り立った天才を主人公にして「ざわ・・・ざわ・・・」とかいつまでもやってるべきじゃない。
江戸の天才たち
『天地明察』の主人公・渋川春海も、碁と算術について高い能力の持ち主ではあるものの、江戸にはそれぞれ本因坊道策、関孝和という、まさに天才が控えています。しかしこの天才たちは、主人公と物語の魅力をまったく損ないません。というより、彼らこそが物語を引き締めています。天才の使い方の模範例と言ってもいい。
- 作者: 冲方丁
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2009/12/01
- メディア: 単行本
- 購入: 28人 クリック: 758回
- この商品を含むブログ (405件) を見る
江戸幕府の碁方として、過去の棋譜をなぞるだけの仕事に飽き足りぬ晴海が、改暦という大事業に巻き込まれていくというこの物語。
日本人のカレンダー・手帳好きはよく言われることですが、江戸時代における暦の意味は、現代とは比べ物にならないものだったようです。
日本人のカレンダー・手帳好きはよく言われることですが、江戸時代における暦の意味は、現代とは比べ物にならないものだったようです。
『天地明察』 P.306 |
---|
幕府、すなわち武家が改暦を断行すれば、天皇から”観象授時”の権限を奪うことになる。天意を読みとくことは、古来、王の職務である。と同時に、宗教的権威そのものだった。(略) 時節を支配し、空間を支配し、宗教的権威の筆頭として幕府が立つ。朝廷の権威を低め、その分を幕府がことごとく奪い去る。(略) 今日が何月何日であるか。その決定権を持つとは、こういうことだ。 |
改暦とは、単に、「宣命歴ってもう古いしズレてるから、新しいの考えようよ」というものではなく、
宗教、政治、文化、経済──全てにおいて君臨するということなのである。 |
算術・測地・歴術といった科学・技術だけで為せるものではなく、国体そのものに関わる大事業なんですね。
この改暦の物語に、神道の思想を織り込みながら、碁の天才・本因坊、算術の天才・関との真剣勝負を絶妙にブレンドしているのだから、見事。一歩間違えれば難解で退屈になりそうなネタを、史実をベースにしたとは思えないほどの美しいプロットで描き切っています。キャラも立っているし、伏線も自然でさわやか、読んでいて嬉しくなりました。もう、これが史実であってほしいよ*1。
マンガ的な天才たち
かように、天才を絶妙に配した『天地明察』。
一方、あざといまでに、マンガ的な天才を登場させるのが、『クビキリサイクル』です。 著者の西尾維新氏は、少年ジャンプで連載中の『めだかボックス』の原作者。
『めだかボックス』は、少年ジャンプに連載であるにもかかわらず、ジャンプの作品・ジャンプの思想を自己言及的に引用しながら、「ありがちなジャンプマンガ」要素を故意に、過剰に盛り込み、きわめてマンガ的に展開していく、毀誉褒貶の激しいマンガ。「主人公に勝てないのは、それが主人公だから」というトートロジカルな命題を持ちだして絶賛順位後退中ですが、ぼくはこういうの大好きです。
『クビキリサイクル』も、技術の天才、料理の天才、占いの天才、そして万能の天才といった、ベジータも激怒しかねないチープな天才のバーゲンセール。
その天才たちが巻き込まれる事件、軸となるトリックが天才的かといえばある意味平凡なのですが、その裏に隠された二重三重のトリックはまさにマンガ的天才的発想のミステリー。
西尾維新特有の鼻につく日本語レトリックも全開で、イライラしながら楽しく読みました。ラノベって当たり外れが多いですけど、けっこう好きです。