ショートショートの大家・星新一は、その膨大な作品のもととなった発想の源泉について、「アイデアは、異質なものを結びつけるところから生まれる」と語っています。また、「技術革新」と訳される「イノベーション」は、実は既存のモノやコトの組み合わせから生まれたものが多いとも言います。
今日は、「おお、いい組み合わせだな~」って思った本を2刷紹介します。
イノベーションの話は出てきません。
おとぎ話×SF、『百万光年のちょっと先』
『このライトノベルがすごい! 2018』で紹介されていた本です。
ライトノベルは、本当に好きになれるものとそうでないものの落差が激しく、かつ表紙が40代男性にはだいぶ厳しいものが多いという欠点はあるのですが、やっぱり面白いものは面白い。
『百万光年のちょっと先』は、型落ち気味の自動家政婦が、幼い少年に紡ぐ物語。宇宙や未来、この世界のどこかを舞台にした小さなお話の集まりです。
SF的で、かつ短編といえば、星新一や筒井康隆や眉村卓の作品が思い出されますが、『百万光年のちょっと先』は、そこにおとぎ話のエッセンスを加えています*1。小さなエピソードから醸し出される、不思議だったり、寓意だったり、物悲しさだったり。
正直最初は、SFとしてはちょっとライトすぎるなと感じました。また、「十億年の時間を要し、建造に関わった星間文明が百回も代替わりした末に完成」といったやたらと大げさな数字も安易に感じて、抵抗がありました。
ですが、ふと思い出すのです。そうだ、これは「こどもに聞かせるおとぎ話」なのだと。
おとぎ話だから、豆の木が天まで届いたり、お椀に乗って旅する侍がいたり、極端なことが当たり前に起きてもいいし、その根拠や背景や理屈を丁寧に解説することは、蛇足でしかないのですね。
それぞれのお話にワクワクするようなガジェットが登場するのも魅力です。たとえば、「宇宙のあらゆる知識を詰め込んだような究極の百科事典」とか、「亜光速単原子生物や超弦生物までを展示している宇宙動物園」・・・。
そこで起きる小さなお話を、ぜひ楽しんでみてください。
わたしが特に気に入ったエピソードは、『夢見るものを、夢見るもの』と『最後の一冊』です。
落語×哲学、『落語―哲学』
タイトルがそのまんまですが、落語と哲学という異色の組み合わせ。
と思うのですが、本書を読み進めていくとたしかに、落語には謎めいた、不条理な話が紛れ込んでいることに気づきます。紹介されているネタでいうと、
- 『芝浜』: 大金を拾った魚屋におかみさんが、それが夢だったと信じ込ませるおはなし。
- 『粗忽長屋』: 行き倒れの男の身元が熊五郎かどうかを、熊五郎自身を呼んできて確かめようとするおはなし。
- 『あたま山』: 頭に桜の木が生えたり池ができたりしてしまい、そこで人が花見や釣りをすることを嘆いた男が、その池に身を投げるはなし。
のように、単なる笑い話で片付けられない違和感を含んでいます。
たとえば『芝浜』について、筆者は2つの視点で分析を試みています。
1つは、多世界解釈。
この噺は、コペンハーゲン解釈ではなく、多世界解釈によって、さらに深みを増す。あるいは、この噺の背景には、多くの離接肢(可能世界)が隠れていて、芝浜という噺の内容が、現実になった離接的偶然として屹立しているともいえるだろう。
大金を拾わなかったら、拾った金を散財してしまっていたら、そして3年働いた後に酒を飲んでしまったら。起こり得たかもしれないけれど、この世界線では起こらなかったたくさんのことを想像させるのが、この噺の魅力ではないかとしています。
もう1つは章タイトル、「この世は夢ではないのか」*2という視点。
この一日で、熊は、何と三度起こされ、おかみさんも熊に一度起こされるのだ。眠りに眠った一日だといえるだろう。だからこそ、この日は、二人のあいだで、夢の現の境目が消えかけていた。どこまでが現実で、どこからが夢なのかわからなくなる条件は、十分そろっていたのである。
噺の中に、実は夢自体は一度も出てこないながら、睡眠と覚醒を繰り返す中、眠りの象徴である「海」から、覚醒の象徴である「陸」に財布が上がってきているという解釈が提示されます。
一体、落語にそこまで深い意図が込められているのか。深読みに深読みを重ねていないか。
そう感じる部分もけっこうあります。ですけど、落語のネタを呼び水にして、世界や人間のあり方を考えていく、話もやたらと広がっていく、それが面白いからオッケーです。
あらためて、落語をちゃんと見てみたいなって思いました*3。
おわりに
組み合わせの妙が面白い2冊を紹介しました。
なおこの記事自体も、全然関係のない2冊の関連を見つけて、組み合わせて紹介するという試みをしてます!