『Software Engineering - A Practitioner's Approach - Ninth Edition』の日本語版・『実践ソフトウェアエンジニアリング 第9版』が発売されました。
わたしは「SEPA翻訳プロジェクト」の1メンバーとして、第3部「品質とセキュリティ」の3章分の翻訳と、周辺の章のレビュアを担当しました。
メンバーのmasskanekoがアドベントカレンダーを作ってくれたので、記事を一つ書いてみます。
本書の位置づけや意義については、ET&IoT2021で他のメンバーがヘヴィな発表をしているのでそちらを参照していただくとして、まだ全章読めてすらいないわたしは、言葉の面白さについての雑文をば。
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英語より日本語で悩む
翻訳の専門家でないどころか、素人翻訳者としてすら長いキャリアがあるわけでもない身でえらそーな言い方になりますが、英語で書かれた技術書を翻訳するうえで必要な能力は大きく3つあります。
- 原文を理解する英語力
- 書かれた内容を咀嚼する知識
- 内容を文章に落とし込む日本語力
1と2に比べて、3は影が薄いです。何せ、日本人の多くは、日本語を不自由なく操れるはずですから。
でも実際、一番苦労するのは3だったりします。
「原文が悪文だ」と原著者のせいにしたくなることもありますし、自然言語がそもそもあいまいさを許容していることも難しい問題なのですが、やはり、日本語と英語の文法の特性が大きく違うことが、翻訳を難しくする大きな要因に思えます。
たとえば、「受動態」「無生物主語」「使役動詞」「関係詞」。
こやつらは、訳文をぎこちなくさせる主犯格であり、同時にあまたの受験生を苦しめてもいる連中です。ただこういった英語の文法を考えていくと、いつしか日本語の問題に行き着いたりするのです。
受動態について考えてみましょう。
以下の文章、どちらが適切に思えますか?
- 「テストで摘出したバグのトリアージを行う。」
- 「テストで摘出されたバグのトリアージを行う。」
「バグ」を修飾する言葉が、能動態的な「摘出した」なのか、受動態的な「摘出された」なのかだけの違いです。
英語なら bugs detected in testing みたいに受動態的に修飾すると思う*1のですが、日本語だと両方許容されるように感じませんか? こんな場面で、ハタと迷うわけですね。
わたしには、aもbも間違っているようには思えませんが、「何らかのロジックに基づいてどちらか選べ」と言われれば、以下のロジックで選びます。
「バグを摘出した」人と「バグのトリアージを行う」人が
- 同一なら: a(摘出した)を選ぶ。
- 同一でないなら: b(摘出された)を選ぶ。
でも、正しいかどうかはよくわからないので、他の人にもそうすべきとは言えません。
とまあこんな風に、英語のことを考えていたはずが、いつの間にか「日本語って難しいな!」ってなるのが、翻訳の面白いところです。
「ひっくり返さない」
10代の多感な時期に身に着けた「英文法」の読解は今もわたしの心に暗い影を落としています。
その1つが、「日本語とは逆に、英語は後ろから後ろから修飾していくので、日本語にするときには逆に訳していかなければならない。」ってやつです。
たとえばこんな文章。
Your software team can develop a set of quality characteristics and associated questions that would probe the degree to which each factors has been satisfied.
(原書15.2.2 Qualitative Quality Assessment)
that would ... が questions を後ろから修飾し、to which ... が the degree を後ろから修飾しているようです。修飾の順番を「逆に」すると、こんな訳になるでしょうか。
品質特性と、その品質特性がどの程度満たされているかを明らかにするための質問のセットを作ってもいいだろう。
たぶん間違ってはいないんでしょうけれど、「品質特性と」で宣言した、「『と』で結ばれるべき相手」である「質問」が、待てど暮らせど出てこないんですね。読み手は、「品質特性」と「と」で結ばれる相手がこの後出てくるはずだというアタマになっているのに。
訳す方も実は同じです。
characteristics をいったん脳に保管しておいて、次の修飾部1を訳しているうちにさらに修飾部2が現れる。修飾部1も脳に保管したうえで、修飾部2を訳し、終わったら修飾部1を脳から取り出し、最後に「品質特性」を脳から取り出して結合する。スタック構造が脳のキャパシティを浪費してしまいます。
こんな文章の翻訳について、『翻訳エクササイズ』(金原瑞人・著)では、「ひっくり返さない」という章で、こんな説明をしています(修飾筆者)。
なぜか中高の英語教育では、関係代名詞や接続詞の前後をひっくり返して訳すように教えることが多く、これが翻訳のときの足枷になっているのは間違いありません。いえ、英語を読むときの足枷にもなっています。
On a sunny day I met a beautiful girl whose name was Jane.
これを訳せというと、たいがいの学生は、
「ある晴れた日、私は、その名がジェインである美しい少女に会った」
と訳してきます。しかし英語は頭から読んでいくと、
「ある晴れた日、美しい少女にあった。その子の名前はジェインだった」
と書かれている。だから、そう訳しましょうという、ただそれだけのことをいっているのです。じゃあ、英語の関係代名詞whoseはどこにいったんだ、whoseをand herとしてしまっていいのかと疑問に思う人もいるでしょう。しかしそれでいいのです。というか、翻訳の場合はこう訳したほうがいいということです。
我が意をえたり~。受験脳のせいで、関係代名詞の限定用法と叙述用法の区別が頭をちらついたりしますが、「翻訳の場合はこう訳したほうがいい」のです!
ということで、先の文章も
Your softaware team can develop a set of quality characteristics and associated questions that would probe the degree to which each factors has been satisfied.(原書15.2.2 Qualitative Quality Assesmentより)
品質特性とそれに関する質問のセットを作り、各要素がどの程度満たされているかを調べることも可能だ。
としています。これはこれで問題ナシというつもりはなく、主語が長すぎるという欠点があり悩ましいのですが・・・。
先ぶれの副詞も・・・
『井上ひさしの作文教室』には、「先ぶれの副詞」という考え方が出てきます。以下抜粋。
日本語というのは文のポイントが、そのおしまいに来る。判断個所が文の終わりに来るんですよね。
私は昼御飯をー--というところで終わってしまったら、食べたのか食べなかったのかわかりません。
そのときに「まだ」とついたら、食べてないということが、すぐにわかってしまいます。
わたしたち日本人は「まだ」と聞くと、下に否定が来ると判断できるんです。こういう「まだ」のようなものを「先触れの副詞」と言います。文章が長くて、読み手が、いい加減ここらで判断の手掛かりを出してくれないかなと思いそうなところで、こういう副詞をちょっと出してやる。そうすると、その文章の判断が決まっていくわけです。
主観ですが、原著は文章が比較的長く、節と節の間の論理関係が取りづらいと感じることが多かった。そういう時には文章を区切ったり、この「先触れの副詞」で早めに文章の意味の方向性を示したり、という工夫を盛り込んだりもしています。
結局、いい訳文を作ろうとすると、日本語に立ち返っていくわけですね~。
おわりに
本書の内容にはまったく触れず、「翻訳って日本語と難しさに気づかされて面白いよ!」という話を書いてみました。
わたしの訳文はベストではないだろうと思いますし、英語のデキる人からすると笑止かもしれませんが、こういったことにできるだけ配慮して書いてみました。
ぜひ、ご一読いただければと思います。
*1:能動態的に修飾するなら、「(誰かが)テストで摘出したバグ」と考えて、bugs someone has detected in testing みたいな感じでしょうけど、あまりそういう言い方はしなさそうです。